今日は『梅津ようせい物語〜山形市民の歌を弾きながら』をご紹介します。
山形市をイメージした時に真っ先に浮かぶのは、子供の頃から親しんだ「山形市民の歌」です。
拙い演奏ですが、山形市政への想いをぜひご覧ください!
ピアノを弾いたのも実に久しぶりですが、もっと弾けるように練習します‼
「梅津ようせい物語 山形市民の歌を弾きながら」
梅津ようせいの、これまでの記者会見、声明文をこちらのコーナーに掲載しました。
日々の活動の記録も綴っておりますので、梅津ようせいをより身近かに感じていただけましたら幸いです。
今日は『梅津ようせい物語〜山形市民の歌を弾きながら』をご紹介します。
山形市をイメージした時に真っ先に浮かぶのは、子供の頃から親しんだ「山形市民の歌」です。
拙い演奏ですが、山形市政への想いをぜひご覧ください!
ピアノを弾いたのも実に久しぶりですが、もっと弾けるように練習します‼
「梅津ようせい物語 山形市民の歌を弾きながら」
皆さん、こんばんは。梅津ようせいです。
私が山形県の防災士会を立ち上げたのは、やはり東日本大震災がきっかけでした。
そしてまたこの度の山形市長選挙の立候補にあたり、東日本大震災のときの働きを評価してくださった多くの市民の皆様からのご要請と、ご支援を受けて出馬を決意し。現在、山形市長選にむけて挑戦しております。
東日本大震災の際は、わが山形では山形空港が大変重要な拠点となりました。
赤ちゃんの粉ミルクはじめ、様々な食料品や物資の供給など当時、農水大臣政務秘書官として奔走しました。その時の有事における経験を今後の山形市政の防災対策にもぜひ、活かしたい!
今回 あらためて「ふるさと山形を守る責任」について山形市長選の公約の中でもよくよく熟慮し、とくに防災政策については、私なりの想いも入れて徹底強化しました。
本日ご紹介する動画は、東日本大震災発災後はじめて山形駅から東京にむけて発車した始発の山形新幹線です。
あの日の早朝、山形駅のホームに立った時のこと、新幹線がホームに入ってきた瞬間のこと。
東京にむかう朝のことは、今でもよく脳裏に覚えています。
私が、ふるさと山形を守るぞ!と強く強く意識し始めたのもこの頃からでした。
梅津ようせい物語「東日本大震災発災後初の山形新幹線始発に乗る」
梅津ようせい
今日は、終戦の日。
70年前の今日、あの戦いが終わり新しい日本が始まった日です。
私たちが過ごす今日の日本の繁栄と平和が、戦禍に倒れ、戦陣に散った皆様や我が国の侵略行為によって損害を被った国々の方々の犠牲の上に成り立っていることを思いおこし、二度とあのような戦争を起こしてはならないという反省と決意をしながら黙とうし、哀悼の意をささげました。
70年前のあの時はどうだったのか?
小さい頃に聞いた両親や祖父母の戦中戦後の話は、飛んできた米軍機から見えないよう小さな子供の身体を震えさせながら隠れたといった話や、戦後の混乱の中で着物などを売りながら食糧を買わなければならなかった餓えや貧困との戦いなど、今の豊かな生活からは到底考えられない話ばかりであったことを思い出します。
そしてまた、私の伯父が満州に渡り、ソ連軍の侵攻から逃げる途中で家族を失い、シベリアに抑留されてやっと帰国した話。
伯父はもう亡くなっており、また多くを聞く機会はありませんでしたが、戦禍に倒れた方々以外にも多くの日本人が様々な困難を乗り越えて、今や、世界で有数の繁栄国家を築いてきたことを思うとき、日本人としての偉大さや矜持を思わずにはいられないのです。
私は我が国が歩んできた戦中、戦後の歴史や、私の親族が歩んできた道などを思い出しながら、日本の安心、安全を守ることが日本の繁栄を盤石なものとする上での基本であるとの認識しつつ18年間、我が国への着上陸侵攻や大量破壊兵器による攻撃や国際テロなどの脅威から国を守るという防衛の仕事をし、そして役人としての最後の2年間は軍備管理・不拡散・軍縮外交という国際の平和と安全を図り、脅威の低減を図る仕事をしてきました。
今、私は、新しい山形市の創造、山形市長選挙に挑んでおります。
平和は、唱えてだけいれば良いというものではありません。
これまでの私の経験を生かしながら、平和をこの地域から発信し、国際社会の一員であることを市民の皆様お一人一人が感じながら積極的に参画できる街づくり、「平和都市山形」づくりをせねばならない。
その思いを新たにしながら、終戦の日という日を迎えております。
「平和都市山形」の繁栄を実現し、将来につなげていくために全力を尽くしていくことをお誓い申し上げ、終戦の日に寄せた梅津ようせいの決意といたします。
平成27年8月15日
梅津ようせい